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銀巴里
私がシャンソンを志した頃、シャンソン歌手として認めてもらうには、
まず、今は無き伝説のシャンソニエ「銀巴里」で歌えるようになること。
そして、私の場合はパリ祭の舞台に立つこと。
とにかく、この二つは絶対的な存在だった。
銀巴里はオーディション制となっており、シャンソン歌手の登竜門として全国から大勢の歌手が応募してきていた。テープ審査で殆どが振り落とされて、ようやくオーデション迄たどり着き、怖ろしく緊張する空気の中、審査員、他の歌手達、厳しい常連のお客様等の前で一曲を歌うことができるのだ。

私の場合は銀巴里のオーデションの合格が巴里祭より少し早かった。
今は亡き銀巴里の作本社長がシャンソンには向かないと思われていた私の高く細い声を拾い上げてくださったからだった。幸いな事に、最初のオーデションで合格できたから今もこうして歌っていられるが、私の性格ではますます自信をなくし、そこから先シャンソン歌手の道を進めはしなかったと思う。作本社長はそんな私の性格も全部見抜いて救い上げ、様々な風から私を守ってくださった
人生の恩人だった。

短いほんの4年間で銀巴里は閉店となってしまったのだが、今振り返っても人生の転換期。様々なことが忘れられない思い出として強く残っている。信頼していた人の裏切りや人の汚らしさも味わったりもしたが、確かに輝いていた時期もこの頃。そして、作本社長と奥様との思い出は、私にとっても母にとっても幸せな一つの時代の象徴だ。少しずつ折に触れ書いていきたいと思っている。

・・・そうそう、社長は釣りが好きだとおっしゃっていた。
行動派で車もかなりのスピードで走らせていた。キレのいい運転でイメージと違っていたので驚いたものだった。クルーザーももっていらしていつも奥様と二人身軽に出かけていらしたようだ。
船酔いの酷い私には知る術のない釣りの楽しさを何度か語ってくださった。
丁寧な優しさの溢れる話の中に、くどうべんさんと古賀勉さんと釣り船の船長さんの話がよく出てきていた。東北訛りの強いベンさんとの会話には古賀さんの通訳がないと、何年話していてもチンプンカンプンだと言って楽しそうに笑っていらした。なんで古賀さんだけが、べんさんの話がわかるんだろう?天才的に頭の良い作本社長の永遠のナゾだったようだ。
いつだったか、ベンさんの出演日に古賀さんの経営する赤坂のシャンソニエ「ブン」に伺った事があったのだが、べんさんは「ブン」で歌いながら飲みながらの状態になっていて、「古賀ちゃんがいてくれないと俺の話をわかってくれる人がいないんだよ」と男泣きとも言えない、男ベソをかいていた。
もう少しで泣き出しそうなべんさんのベソ。
私達はココで笑っていいのか本当に困ってしまったことをよく覚えている。古賀さんがべんさんの肩を抱いてあげていた。古賀夫人でもある芳賀さんの微笑みはマリアさまみたいだった。
そんなべんさんももう居ない。べんさんの訳詩で「さくらんぼの実る頃」を歌っているけど、さくらんぼの実る頃、鶯が楽しそうに野に歌うよ。って季節的におかしいんじゃないかって言う人もいるけど、
でもやっぱり、みんなはこの詞が好きなんだな.
 
話は戻るが、作本社長はきのこ博士としての別の顔をもってらした。こちらも日本中に名を馳せるほどの大家だったそうだが、アマチュア精神を貫いた為かシャンソン界にはあまり知られていないようだ。新種発見の数が何種類なっていたのか忘れてしまったけれど凄い頭脳と探究心の持ち主。
ド級のマニアックな人物だったのだ。
私もカビの研究に明け暮れた実績があるのを評価してくださったのか?毒きのこ図鑑を何度かみせていただいた(^^ゞ ことがあった。
きのこワールドは常人が入ってゆけないブッとんだ世界のようだ。
椎茸・シメジから松茸や(+α そういえば松茸いっぱいの山を知っているとか言ってらしたのを今思い出した)(松茸よりおいしいきのこもあるんだって・・・)猿の腰掛け・毒きのこ・笑いダケ・マジックマッシュの類の幻覚作用のあるものまで、色も形も成分違うその数はまだ謎らしい(・・?  

それから・・・ 取材をかねて出掛けた作本社長の郷里の北海道で奥様と『川の字』になって眠った(眠ろうとした)ことがある。緊張してあまり眠れなかったのだ・・・後にも先にも『川の字』初体験だった私は、今こうして書いていてもなんとなくドキドキしてくる。兄弟のいない私は、○○○以外で他人と一緒に寝たのは就学旅行と海の家くらいのものだったから・・・

その後も お二人の人柄の偲ばれる別荘へお邪魔させていただいたり、母の身体を気遣ってくださいなからのお食事、いつも、人に対する心くばりとはこういうことなんだ・・・驚きと感心と感謝の連続だった。父を小学生の時に癌で亡くした為か尊敬する人物に対して言葉の足りなくなってしまう私の心がどの程度お伝えできていたのか、今となっては確かめる術も無くなってしまったが、私と母の中で作本社長と奥様への御恩はこれからも決して薄れることはない。
by mariko-sugita | 2005-09-01 09:43 | chanson
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